その手で 3.ナイとプール

 そろそろ授業に出ないと出席日数が足りない、と担任の水嶋先生に諭されたのは一週間前のこと。私は忘れ去られた場所に行く時間を減らしてたまには授業に出るようになった。イクに会えないのは私の日常ではなくて、物足りなさを感じる。たぶんこれは寂しいという感情だ。誰かに会えなくて寂しいなんて感情を私が持っていたことに私は驚いた。

 六月末。体育では水泳の授業が始まる。クラスメイトの顔はまだ靄がかかったようにどれも曖昧な形をしていて思い出せない。誰がどれだか覚えている人を素直に賞賛したい。イクには「他人に興味が無いんだな」と笑われた。頬骨をあげて笑うイクはいつも楽しそうで苦しそうだった。笑うことでしかこの世を受け入れられない人なのかと思う。

 私は身体が悪いということにして水泳の授業はすべて見学扱いにしてもらった。水嶋先生の取り計らいだ。見学者は屋外のプールサイドに降り積もった落ち葉や虫の死骸の掃除をしなくてはならない。デッキブラシを持って湿ったプールサイドを歩いていると、体育館の二階の窓が薄汚れて輝いているのが見える。

「イク」

 名前を呼んでみた。だからって彼は現れない。今はクラスメイトと、プールで、掃除。水しぶきが初夏の日差しに輝き、ざぶんざぶんと人が水を搔き分けて前へ進む音がする。私は、前に、進めない。進みたくない。

 裸足に死んだ蛾が漂着して私は拾い上げた。鱗粉が剥がれ、足も数本足りない。ばらばらになって死んでいく方法もあるのだと私は知った。フェンスから外に投げ捨てて、水道で手に付いた鱗粉を洗い落とした。

 一刹那、私は水の中に居た。

 耳の中が水で満たされ、きゃあきゃあという女の子の声がした。体操服が水を吸い込んで重たい。立ち上がって水面から顔を出す。

「松岡! 何してるんだ」

 松岡。忘れていたけれど私の名前だ。私は長いこと「ナイ」だったから忘れていた。それになんで私は水の中にいるのだろう。そういえば背中に何かの力が加わった名残がある。見渡すと、他の見学の女の子たちが笑いを手で隠して目をぎらぎらさせていた。私は、突き落とされたのだ。

 言葉を発そうと舌を動かそうとすると、女の子たちは「松岡さんはふざけて自分から飛び込みました」と主張した。

「あとで職員室に来い。とりあえず早く上がれ」

 プールの縁を掴んで身体を上げる。水を含んだ体操服が身体に張り付いて下着の柄がすべて見えていた。風が吹くと私の体温を奪った。六月なんてまだ寒いんだって私は知った。

 プールサイドで凍えていると、プリペイド式の携帯電話で呼び出された保健室の先生が私の肩にタオルをかけて私を連れ出した。保健室の先生の手も私と同じくらい冷たかった。

 保健室で体操服と下着を脱いで、ブラジャー代わりにセーラー服の上から指定の赤ジャージを羽織った。スカートの下には新品のパンツを勧められたが何も履かなかった。先生は何も言わずに私に暖かい緑茶を出した。

「こういうことは年に一回くらいはあるから」

 それが私の担当だった、ってことだろうか。髪をほどいて滴る水をタオルで拭いていく。重たくて、塩素の臭いがキツかった。塩素で髪が傷むな。とか、どうやって乾かそう、とか無言で私は考えていた。

「こういう暑い日は飛び込みたくもなるよね」

 先生は呆れたように溜息をついた。違う、とは言わせてくれなかった。あのまま溺死した方が良かったのかもしれない、と憮然として思った。

 濡れた髪をタオルで叩きながら廊下を歩く。ぱりぱりと嫌な乾き方をするのが分かる。もう嫌だ。私の味方なんて誰も居ない。イクに笑って欲しかった。忘れ去られた場所で居ないことになりたかった。また一緒に甘い煙を共有したかった。

「失礼します」と事務的に挨拶をする。ショーツ一枚でスカートの中がこんなにも心許ないのだと知った。職員室を見渡し、体育教師の机に向かう。刈り上げられた髪から見える首まで筋肉質な女教師だった。

「松岡、一体どういうつもりだ。急にプールに飛び込むなんて。どれだけ危険なのかは少し考えれば分かるだろ?」

 頭を打ち付ければ死んでいた。水を飲んでいたら死んでいた。なんで私は生きているのだろう。命までなくなったら私は本当に何もない存在になれて、誰の記憶にも残らず、この世に居なかったことになれるのに。

「なんでやった?」

 女教師が眉をつり上げる。規則的に指先で机を叩く。何も答えない私への苛立ちを露わにしていた。

 私じゃない。ってどうしたら説明できるだろうか。気づいたら落ちていた。もしかしたら本当に気が触れて飛び込んでしまっただけかもしれない。でも背中には力が加わった名残があって、生理中で苛立つ女の子たちは笑っていた。足を滑らせただけかもしれない。

 女教師は息を吐いた。私に苛立っている。でも、私は何を答えたらいいのだろう。どこから説明したらいい。私に友達がいないことからだろうか。

「松岡さん!」

 水嶋先生が私の元へ駆け寄る。艶のある黒髪はパーマで波のようにくねり、細いフレームの丸眼鏡の奥の瞳は怒りで険しいものとなっていた。私は今日は何人に叱られるのだろう。

「プールに落ちたって聞いたけど大丈夫? 怪我してない?」

 水嶋先生は私の肩を掴んで、濡れた髪を撫でた。意外な優しさに触れて、私はどうしたらいいのか分からなくてその手を受け入れていた。

「プールに落ちた、って松岡は自分から飛び込んだよ。下手したら他に怪我人が出てたかもしれない。担任としてキツく叱っておいてくださいよ」と女教師は吐き捨てる。

「自分から飛び込んだ?」

 水嶋先生の語尾が上がる。眉間に皺が寄り、激しい剣幕で女教師に食ってかかった。

「松岡さんがそんなことするわけないじゃないですか。ちゃんと見てたんですか?」

 女教師は面食らって時が止まっていたが、一つ息を吐くと「コイツは滅多に授業にも出ようとしない不良学生だ。そう思われてもしょうがない」と低い声で漏らした。

 水嶋先生は憮然として、私の手を引いて職員室を後にした。その手はしっとりとしていて、男の人にしては柔らかかった。イクとは、違う手だ。

 水嶋先生は国語準備室に私を連れ込むと、私を胸の位置で抱きしめた。煙草の臭いはなくて、ペパーミントみたいな大人の男の人の香りがする。国語準備室に入るのは初めてで、濡れた紙のような臭いと微かに紅茶の香りがした。先生の胸で視界が塞がれ、何がおいてあるのかは分からない。ただ、薄暗くて清潔だった。

「松岡さん、怖かったよな」

 私はうなずくことも首を振ることもできなかった。

「私が松岡さんを守るから、クラスにも戻っておいで。少しずつでいいから、授業にも出よう」

 先生は私の背中を撫でて、つむじに鼻を当てていた。大きな男の人につつまれて、私は逃げることも受け入れることもできない。先生がどんなに頑張ってくれても、私には何も「ナイ」んだ。ナイモノを得るのは大変だ。無い命はもう取り戻せないように。

「みずしませんせい」

 私は何を答えたらいいのか分からなくて、名前だけ呼んだ。先生の体温が冷えた私を暖めるまで、先生は私のことを抱きしめ続けていた。