2022.02.26 09:00その手で 37 ナイと体育館(完) 体育館を正しい用途で使うことは私にとっては珍しいことだった。 桜舞う、よき日。イクは卒業した。 並べられたパイプ椅子に座ってこの一年のことを思い返していた。 イクがいたから、私はこの高校に居続けることができた。 家族がいなくても、生きていられることができた。 あの日、忘れられた場所にイクがいなかったら私はどうなっていたのだろう。 そんな...
2022.02.25 09:00その手で 36.ナイとイクと忘れ去られた場所 トタ、トタ、トタ。誰もいない体育館を靴下で歩く。 しんとして。薄暗くて、何も無い。 天井を見上げれば骨組みの間でバレーボールが首を吊っている。 死んでしまいたいほど愚かでもなく、生きながらえたいほど希望もない。 歩きなれた体育館。キルティングのドアを押すと、むっと太陽のような埃の臭いと、微かな甘い煙の匂いがする。「待ってたぞ」と男は言う...
2022.02.24 09:00その手で 35.ナイと中村家 モナの彼氏がイク。そっか。そうなんだ。 照れ笑いするモナ。それとイク。 私は歩いていた。冷たい風が肌を刺し、死んだ木の葉が足を切っても。歩いて、歩いて、歩いた。 川を越えて、坂を上り、雨が降り出しても歩みを止めることができなかった。 セーラー服が水分を含んで重くなっても。私の内臓に鉛玉が蓄積されても。 気付いたら、家の前にいた。私の家じ...
2022.02.23 09:00その手で 34.イクと教室 モナからナイが教室に戻ってきたとメールをもらったので、昼休みにナイの教室に顔を出すことにした。 モナとはあの後、近場の喫茶店でメアドを交換して、ナイとの喧嘩の一部始終を聞いた。モナといいナイといい、人との関わり方が下手すぎないかと頭を抱えたが、だからこそ教室に行くことが難しいのだろう。 なんで俺は教室に行かなくなったんだっけ。 親父が家...
2022.02.22 09:00その手で 33.ナイと国語準備室 忘れ去られた場所に行ったのはなんでだっけ。 国語準備室には様々な書物があった。私はどれにも興味が持てなくて、背表紙を眺めるだけで一日が終わる。 そう、高校生活もそんな感じだった。 クラスメイトの顔を見ても興味が持てなくて、話しかけられてもどう返事をしたらいいか考えているうちに飽きられて、そして、孤立した。 教室は私の居場所じゃなかった。...
2022.02.21 09:00その手で 32.イクと教室 あの日からナイは「忘れ去られた場所」に現れなくなった。たまたま同じ時間にいないだけなのか、モナと仲良くなって教室に居られるようになったのか。どちらにせよ俺は受験はしないし、就職も大将さんのところにする話を進めているので学校に来る意味は卒業に必要な数だけ出席をするだけだ。ナイが教室になじめているようならよかった。でも、一週間も顔を見ていな...
2022.02.20 09:00その手で 31.ナイと水嶋家 公衆電話でイクに電話をかけようとして、でも私は覚えきったダイアルを回せなかった。 秋の夜は、一人の夜はこんなにも寒い。人のぬくもりを知ったばかりの私には寒すぎる夜だった。 帰るところはナイ。消えてしまいたい。けど、イクのために生きていたい。どうしたらよいのだろう。 薄っぺらい学校の指定カバンを漁っていると、一枚の紙切れが出てきた。喫茶店...
2022.02.19 09:00その手で 30.ナイと中村家 離れることがこんなにも苦しいものだとは知らなかった。 一度癒着した粘膜はひとつの生物となり、引き剥がされた私は半人前の不完全な存在ではないかと思う。もともと完全な存在だったかは分からない。けれど個人として存在していたとは記憶している。今の私はもう、過去の私ではないのだ。 家族を失ったことは別段寂しいとは思わなかった。それはどうしようもな...
2022.02.18 09:00その手で 29.イクと坂上家 ナイと朝を迎えることがあるとは思わなかった。 倫理的に早すぎるとか、子供ができたら、とか考えたけど、ナイの目は本気だった。抗えなかった。彼女の存在に。 閉まったカーテンの隙間から朝日が差し込む。腕の中には小さな愛しい人がいる。これを幸せと呼ばずになんと呼ぶのだろう。 上体を起こして、小さく伸びをする。脱ぎ散らかした服が昨日の熱を物語って...
2022.02.17 09:00その手で 28.ナイと坂上家 イクは私の手を離さずに〈岩崎屋〉の三階に案内した。イクの家。二度目の、イクの家。 触れられるとはどういうことだろう。心臓が確実に拍動する。私にも心臓がある。イクにも心臓はあるだろうか。触れたら、分かるだろうか。 イクは部屋のドアを閉めると、ゆっくりと私に顔を下ろした。いつものイクの味がする。目を開くとゼロ距離のイクがいる。落ち着かない。...
2022.02.16 09:00その手で 27.ナイと駐輪場 あの日からモナは私に寄りつかなくなった。たまに教室で視線を感じることがあっても無視した。私はまたひとりに戻った。そもそも友達になったつもりもなかった。なのに胸の中に氷の塊ができたような不快感だけが残った。 秋の風が私のスカートをはためかせる。落ち葉が私のローファーを撫でる。――もしあの手がイクだったら。 そこまで考えて、私は思考を止めよ...
2022.02.15 09:00その手で 26.ミズと橋栗家 来たくはなかったけれど家に帰るよりは快適なのでまたモナの家に来てしまった。 実際、レアチーズケーキというものは美味しかったし、紅茶も美味しかった。普段は見ないテレビを二人で見て、モナにピアノの弾き方を少し教えてもらった。ピアノは触れば音が出るのに、私の音とモナの音は全然違った。不思議なものにまた出会ってしまった。 ピアノに興味がわいた、...