その手で 5.ナイと渡り廊下

 一年生の教室と三年生の教室は棟が違う。一年生は体育館に近い南校舎の二階と三階で、三年生は体育館から南校舎を挟んだ北側にある本校舎の三階だ。私の教室は南校舎の三階で、イクの教室は本校舎の三階のどこかである。本校舎の教室の並びを知らなければ、イクが何組なのかも私は知らなかった。私たちをつなぐのは体育館二階の「忘れ去られた場所」だけだ。

 私は教室の窓から見える体育館と校舎の間にある庭に生い茂る木々に垂れる雨だれを眺めていた。毛糸みたいに柔らかい雨が葉を撫でて落ちていく。数学の授業よりこっちを見ている方がよっぽど楽しかった。

 忘れ去られた場所に行くのはお昼休みと気が向いたとき。イクがいるときといないときがあるが、お昼休みは大体いる。私を殺してくれる人。私に名前をくれた人。あの手に触れられると私は何もかもがどうでも良くなって、イクだけが重要な存在になる。抱き寄せられたときに感じる甘い煙草のけむたさが私の脳を溶かしてしまうように。

 イクのことを考えていたうちに二限が終わるチャイムが鳴った。数学の内容は結局一切分からなかった。それでもいいと、今の私は思っていた。

 三限は音楽の授業だった。音楽室は本校舎の三階にあるらしい。よく分からないので他のクラスメイトが歩く方向へぞろぞろと歩いてついて行った。

 本校舎への渡り廊下、前から体操服姿の大きな男子生徒が歩いてくる。快活で、騒がしくて、何も考えていなさそう。それが学生のあるべき姿なのかもしれない。

 私は怖くなってうつむいて歩いていると、トン、と誰かにぶつかった。

 何を言うべきか考えていると、相手は私のあごを掴んで顔を上げさせた。

「ちゃんと前見てんのか。ナイ」

「あ、イク」

 私の頬に血が通う。青いジャージを肩から羽織った体操服姿だった。ハーフパンツは腰に引っかけただけの膝下丈で、くるぶし丈の瑠璃色の靴下と長い金髪だけが見慣れたものだった。イクは一緒に歩いてた男子生徒たちに先に行けと言うと、渡り廊下の窓枠に肘を預けた。

「イクも体操服持ってるんだね」

「一応三年にまで進級できる程度には授業出てるからな」

「なんか、変なの」

 衣替えでワイシャツ姿になったイクも最近見慣れたばかりなのに、ちゃんと体育の授業に出ているイクが面白くて、私は小さく笑った。

「変とは何だ。殺されたいのか」

「うん!」

 嬉しくて、私はイクの胸に頬を寄せた。が、イクがすぐ引きはがす。

「人前でくっつくな、はしたない」

「イクがはしたないとか言うんだ」

「俺たちのことがばれたら面倒だろ」

 そっか、と私は理解した。「忘れ去られた場所」のことが知られたら私たちの居場所はなくなる。逃げ場で、隠れ蓑で、私たちの生きる場所。私たちが繋がっていること――私の命がイクのものであること――が知られたら何かしらの調査とか入るのだろうか。でも、私は外のイクが見られて嬉しかった。

「イクはこれから体育なの?」

「見りゃ分かんだろ。雨だからプールじゃなくて体育館」

 イクはスッと口元に手をやって下ろし、深く息を吐いた。煙草を吸うようなポーズを無意識にしてしまうイクが面白い。

「ナイはこれからどこ行くの」

 音楽室、と言おうとして、先に他のクラスメイト全員が先に行ってしまったことに気がつく。これじゃ音楽室の場所が分からない。三階全ての教室を回れば分かるだろうか。

「音楽か」

 イクの視線が私が握っている教科書に向いていた。こくん、と私はうなずく。

「で、音楽室がどこにあるのか分からない、と」

 こくん、とまたうなずいた。

「ホントどんくさいな、お前」

 私の耳が馬鹿みたいに熱くなる。イクに会えてよかった。でも、ここではイクに触れてはいけない。

「音楽室はここ渡って本校舎の一番奥の突き当たりだ。分かるか?」

「たぶん」

 そっか、とイクが私の頭を撫でる。イクは腰を折ると、私の耳元で呟いた。

「次、ぶつかったらぶっ殺すから」

 イクは「ほら、授業始まんぞ!」と叫ぶと渡り廊下を軽やかに走って行った。来週も雨ならいいのに、と私は願った。