その手で 8.ナイと中村家

 試験時間は私が思考するよりも速く、あっという間に過ぎた。水嶋先生が言うには世界史だけが赤点で、あとはどれもぎりぎりだが合格点に達していたらしい。イクと勉強した化学はクラスで真ん中くらいの成績で少しばかり誇らしかった。

「まったく、こんな成績で恥ずかしくないの?」

 赤点補習に出ようと玄関で靴を履いていると、叔母さんに呼び止められる。恥ずかしいって、誰に?

「亡くなった姉さんや和彦さんに申し訳がないわ。何考えているか分かんないし、可愛げも無いし。あなたちゃんと授業に出てるんでしょうね」

 叔母さんは何が言いたいのだろう。なんて返事してほしいのだろう。私が何を言えば満足してくれるのだろう。

「その目よ!」

 叔母さんはヒステリックに叫んで私の肩を揺さぶる。視界がぐらぐらと揺れて、今度は私の上に瓦礫が降ってぺしゃんこになるのだろうかと思った。

「あなたは何を考えているの? 私にはさっぱり分からない……」

 叔母さんは乱れた髪を肩になでつけると奥の居間に戻っていった。階段から降りてきた従兄は舌打ちだけして私の横を通り過ぎた。彼らが機嫌良いのは私がいないことになっているときだけだから。

 私は歪んだセーラー服の襟を直してから、何も言わずに玄関から出た。なるべく音を立てないように。

 補習授業もあっという間に終わった。世界は戦争の歴史を繰り返している。人は憎み、殺し合い、血潮で国土を潤す。そういうおとぎ話を聞いて、簡単な穴埋め問題のプリントを解いて終わり。私の家族ごっこしている叔母さんも私の血潮で家を潤したいのだろうか。そうしたら満足するのかな。

 そのまままっすぐ帰る気になれなくて、私は「忘れ去られた場所」に向かおうとした。しかし体育館は運動部が練習に使っていた。

 どうしよう。

 私は今、何をしたい? 叔母さんに会いたくない。従兄にも、叔父さんにも会いたくない。あの家にいたくない。学校にもいたくない。どこにもいたくない。消えたい。でも、

「イクに殺されるまで死ねない」

 言葉にしたら面白くて私は片頬を歪ませた。そうだ、私に足りないのは、イクだ。

 私は校門を出て、一番近くの電話ボックスに入った。換気が十分にされていなくて熱せられた空気で咽せそうだった。

 受話器を取って持っていたテレフォンカード入れる。折りたたまれたルーズリーフに書かれた番号をプッシュすると三コール目で繋がった。

「イク」

 私は彼の名前だけ呼んだ。

「……なんだ、ナイか。どうした?」

 その声音は機械を通した分だけ幾分遠く、優しく感じられた。

「私、どこにもいきたくない」

 今、どこにいるかとイクに尋ねられて、校門前の電話ボックスだと答えた。

「五分でそっち行くから待ってろ」

 それだけ言うと電話は切れた。イクにしかかけないけど、テレフォンカードというものは寿命の減りが速いな、なんて思った。

 校門前の木陰で蝉のラブソングを聞いていたら青いフレームの自転車のイクが現れた。ジャージ素材の黒い半ズボンにエメラルドグリーンのTシャツを着ていた。Tシャツにはシャチのイラストが印刷されていた。汗でTシャツがイクの胸に張り付いている。

「ナイは、補習か」

 私はコクリと頷く。

「世界史って虐殺の歴史なんだね」

「何を学んできたんだナイは」

 イクは自転車の前カゴに入れていた炭酸飲料を勢いよく飲む。腕で口を拭うと、私にペットボトルを差し出した。

「暑かっただろ。飲めよ」

 一口含むと、口の中が痛かった。針のように弾けて口内を刺す。でも、喉を通り過ぎるときのさわやかさが癖になりそうだった。二酸化炭素が逆流して小さく出る。冷たくて、汗ばんだ私をほんの少し生き返らせる。死んでしまってもよかったのに。

「で、ナイはどこにも行きたくないんだな」

 私は結局どうしたいのか分からなくなって黙っていた。

「じゃあ暑いし、ゲーセンでも行くか」

「ゲーセンって、何」

「ゲームセンターの略」

 ゲームセンターが何かは分からなかったけれど、今ここで太陽に焼かれるよりはマシだということだけは分かった。

 ゲームセンターというものは、ひどく情報量が多い場所であるということが分かった。あらゆる場所から音楽と光が出てきて、人も多くて、ぎらぎらチカチカしていた。

 私はイクの手を握って、はぐれないことに集中した。イクは私の動揺に気づいているのか、比較的ゆっくりと歩いて、話すときは耳元まで口を近づけてくれた。

「これ、やってみるか?」

 提案されたのはパズルゲームだった。落ちてくる数種類のピースを回転させて一列埋めると消える、というルールらしい。隣の人がやっているのを見てそう理解した。

「対戦しよう」

「うん」

 二人で百円玉を入れて開始する。するすると落ちてくるピースを回転させて並べる。次どうするか考える時間はくれない。今、どうするかが問われている。私はちぐはぐなりに並べて、なんとか三列消した。そのとき、

「ふっ、いただき」

 空けていた端の一列にイクが細長いピースを入れる。派手な効果音がして四列一気に消えた。私の画面がせり上がって狭くなる。結果として、私は大敗した。

 私は年甲斐もなく頬を膨らませた。

「ナイも頑張ったんじゃない?」

「イク、ずるい」

「勝負の世界ですから」

 それでもむくれていると、イクは私の頬を突っついて、しょうがないなあ、と笑った。

「じゃあ次、これ取ってやるから」

 連れて行かれたのは透明な大きな箱の前だった。中には大きな二等頭の黒猫のぬいぐるみが置いてある。上の方にトングのようなものがあった。

「UFOキャッチャーっていうの。あのアームで中のものを掴んで落とせたら中の物を貰えるの」

 イクが百円玉を入れると、アームとよばれた部分が動き出した。イクは前、そして横から見ながら正確な位置を探る。ボタンを押すと、アームがついたUFOが降りてきて、黒猫の足首を掴む。足首から持ち上がった頭の大きな黒猫はバランスを崩して一歩前に進むが、アームが足から外れる。イクはもう一枚百円玉を入れる。

 UFOはまた正確に黒猫の足首を掴む。胴体まで持ち上がって、奈落の底に落ちる。

「うっし、二百円」

 箱の下から頭の大きな黒猫を取り出すと、イクは私の胸に押しつけた。

「これやるから、機嫌直せよ」

「ありがと」

 柔らかなそれを私は抱きしめた。こうやって人から何かをもらうのは「ナイ」という名前の他に初めてだった。黒猫は微笑んで、私の腕の中で微睡んでいた。かわいい。

「大事にする」

「おう、また欲しいものあったら取ってやるよ」

 イクは頬を上げて笑った。

 一刹那、ゲームセンターに入ってきた集団の中に知っている顔が現れた。視線が交わる。相手も驚いた顔をしていた。とっさに後ろを向いて、早鐘を打つ心臓が収まるのを待った。

「ナイ、どうした?」

「おにいさん」

「叔父さんとこの?」とイクが小さな声で聞く。私も小さく頷いた。

「見られちゃまずかったか」

 分からない。あの人が叔母さんに言うだろうか。私がここにいるなんて知られて、何か不都合があるだろうか。でも、嫌な予感はぬぐえなかった。私たちは他人だけど、他人以上に仲が悪かった。悪いようにしか報告しないだろう。

「もう帰るか?」

 帰りたくない。イクと一緒にいたい。

「イク、あれは何?」

 私は彼が向かった方とは逆を指した。

「あ、あれはだな……まあナイが行きたいなら」

 イクの顔がいくらか赤く感じられたのは夏の熱気のせいだけじゃない気がした。

 私は音も立てずに中村家の玄関を開けた。私はここの家族じゃない。他人の私が寄生しているだけ。私にあてがわれた小部屋のベッドに黒猫を下ろすと、ルーズリーフの内表紙を開いた。

 私とイクの写真。

 私はいつでもイクに会えるんだ。客観的に見た私はお世辞にも可愛いとは言えないけれど、肩を抱いてくれるイクの暖かさは何度でも思い出せた。

 ひぐらしが鳴いている。扇風機が回る音。夏は、誰にも平等にやってくる。「忘れ去られた場所」に行けない夏が。