その手で 10.イクと夏祭り

 ナイは夏祭りに行ったことがあるのだろうか。

 岩崎屋で皿洗いをしていると夏祭りのポスターと目が合った。丁度来週末、土曜が踊りで日曜が花火大会だった。

 夏休みに入ってからナイと会ったのは補習日のゲーセンだけで、あとはたまに電話がかかってきてなんでもない話をするだけだった。この前は美術館に行って子供を食べる人の絵を見てきたらしい。ナイの趣味はよく分からないが、ナイは死と共に生きているのだと分かり始めていた。

「坂上、手が止まってるぞ」

 大将さんにどやされて皿洗いを続ける。この季節は手をずっと水に浸していると体温が程よく奪われて心地よい。命が奪われていくようで――。まるでナイが考えそうなことだな、と思うと自然と笑いが零れていた。

 ナイを夏祭りに連れて行きたい。だからって何があるのかは分からないけれど、一緒に居たいと思うことに理由は必要だろうか。

 ナイは携帯電話を持っていない。電話代がかかるからと俺がいつもテレフォンカードを渡すだけで、ナイから連絡がない限りどこかに誘い出すこともできない。ナイの住んでいる叔母の家の番号は一応知っている。が、俺達の関係を知られるのはナイが望まない。

「あーあ」

 水道で油汚れと格闘しながら溜息を漏らした。ナイからの電話を心待ちにするなんて、俺もとんだ乙女だな、なんて思った。

 しかし大将さんの一言で事態は一変する。

「坂上、お前来週末入れるか? 実は岩崎屋でひとつ屋台を出すことになってな。ラーメンの屋台なんてなかなか粋だろ?」

 これはナイからの連絡云々の問題ではなくなっていた。

「い、一応」

「あーそうだったな、坂上、コレ、いたもんな」

 コレ、と言って大将さんは小指を立てる。恥ずかしいからやめて欲しい。

「ナイちゃんとは約束してたのか?」

「いえ、まだ……というか、ナイから電話ないと約束のしようがなくて」

 なるほどな、と大将さんの肉付きの良い顔が意気揚々と歪む。

「じゃ、シフト入れとくから、ナイちゃんが屋台まで来たらそのままデートしてきていいぞ。待ち合わせは歩き回るより待っていた方が会いやすいから。ついでに、ナイちゃんにはラーメンサービスで」

「いいんですか、そんな」

「いいさ、恋に悩める青春坊主を応援するのも大人の役目ってもんよ。それにあれだ、ナイちゃんにはたらふく食べさせてくなるんだよ」

 ニシシ、と笑う大将さんに俺はむずがゆいような心持ちで感謝を述べた。

 結局夏祭り当日までナイから電話はなかった。きっと夏祭りの存在などつゆ知らず蝉の死骸でも潰しているのだろう。

 借りてきた移動式屋台を神社までの参道に並べて、仕込んでおいたスープを運び、使い捨てのプラスチック容器と割り箸を用意する。日が暮れても夏の熱気は俺たちを逃がしてくれない。汗が額から滴り落ち、気付けば首に巻いたタオルがびっしょりと水分を含んでいた。

 祭りが始まって、若者から老人まで地元の踊りチームが駅前のロータリーから神社までの参道までを踊って回る。同じ曲が何度も、何度も繰り返される。そして馬鹿みたいに騒いで夏の暑さを熱気に変えるのだ。

 俺はせわしなく接客しながら、ナイの姿を探していた。ふらりと、濡れた子猫みたいな風貌でやってこないだろうか。ずっと俺は、探していた。俺の隣にいるべき人を。

 屋台の前に騒がしい若者グループがやってきた。たぶん俺と同じくらいの年頃だ。

「サーセン、醤油一つと塩三つで――?」

 注文した男が俺の顔をまじまじと見る。どこかで会ったことが……ある。

「あの、すみませんが松岡深澄さんのおにいさんですか?」

 男は蛇みたいな目を細めて、にたり、と笑った。

「あー、君、深澄の彼氏ね。あんなのに彼氏ができるとか思わなかったけど、まあ、いいか。深澄がお世話になってます」

 含みのある物言いに正直目の前が真っ赤になった。でも、それより優先すべきは。

「お願いがあるんすけど、これを深澄さんに渡してくれませんか?」

 俺は急いで伝票にペンを走らせ、目の前の男に差し出した。

「ん、いいよ。あんな何にもナイ奴、どうだっていいから」

 殴りかかろうとする拳を抑えて、ありがとうございます、と頭を下げた。

 明日の夜七時に学校まで迎えに行く。たったそれだけだったけれど、届けてくれることを願った。