その手で 33.ナイと国語準備室

 忘れ去られた場所に行ったのはなんでだっけ。

 国語準備室には様々な書物があった。私はどれにも興味が持てなくて、背表紙を眺めるだけで一日が終わる。

 そう、高校生活もそんな感じだった。

 クラスメイトの顔を見ても興味が持てなくて、話しかけられてもどう返事をしたらいいか考えているうちに飽きられて、そして、孤立した。

 教室は私の居場所じゃなかった。ただそれだけ。悪口を言われても、暴力を振るわれても、私は何も感じなかった。ううん、感じないよう思考が止まっていた。思考が止まっていたとしても、心には小さな切り傷がたくさん付けられて逃げることを選んでいた。

 逃げてどうするつもりだったのかは分からない。

 もしイクがいなかったら私はどうしていたのだろう。

 私はイクに「殺して」と頼んだ。結果的に私はイクに生かされている。でもいつかイクは私を殺してくれるという確信があった。だってイクは何もナイ私にいろいろなものをくれた。だからきっと最期には、死をくれるだろう。

「おまたせ、松岡さん。これ、数学の皆川先生から課題のプリントと、前回のプリントの解説ね」

 水嶋先生は丸眼鏡の奥の瞳を細めて、最近、私専用になっている机の上に置いた。

「松岡さん、いい顔をしているね」

 いい顔。口角が上がって眉尻が下がる。これもイクがくれたものだ。

 でも、今はイクに会いたくなかった。今は会ってはいけない。こんな私じゃダメだ。

 頬に滴が当たる音がした。微かな、私にしか聞こえないほどの小さな音。

 私の顔がペパーミントの香りの胸に包まれる。

「余計なこと言っちゃったかな。ごめんね。悲しくなったかな」

 私は声を発せなかった。声を出そうとすると呼吸が乱れて苦しくなる。泣くという活動はとても疲れるのだと私は知った。

「大丈夫、大丈夫だからね」

 水嶋先生の言葉にはいつも現実味がない。大人になったら現実を見ないで生きていけるようになるのだろうか。

 イクじゃない人の手が私の髪を撫でる。しっとりとした、柔らかい手。

 私が求めている手はこれじゃない。

 私がそっと離れると、水嶋先生は弧を描いていた。唇も、瞼も、眉毛も。

 先生の家で暮らし始めてもう一週間。もう帰らなきゃ。でも、どこに?

「松岡さん、私とずっと一緒に暮らそうか」

 水嶋先生の家で暮らす。嬉しくも悲しくもナイ。でも、私は、

「それはできないよ」

 抱きしめる力が強くなる。肺の空気が押し出される。

「そう言ってくれてよかった。松岡さん」

 湿った柔らかいものがおでこに触れる。本当に嬉しくも悲しくもなかった。私に感情というものをくれたのもイクだったから。