その手で 36.ナイとイクと忘れ去られた場所

 トタ、トタ、トタ。誰もいない体育館を靴下で歩く。

 しんとして。薄暗くて、何も無い。

 天井を見上げれば骨組みの間でバレーボールが首を吊っている。

 死んでしまいたいほど愚かでもなく、生きながらえたいほど希望もない。

 歩きなれた体育館。キルティングのドアを押すと、むっと太陽のような埃の臭いと、微かな甘い煙の匂いがする。

「待ってたぞ」と男は言う。艶のない金髪。ニキビのある頬。青いトレーナーの上に羽織った学ラン。手元には、開封された煙草の箱と炭酸ジュースの缶。

「そんなびしょ濡れで。全く、野良の黒猫じゃあるまいし」

 男は立ち上がって女を抱きしめる。長い二つのおさげ。耳の上の猫のピン。セーラー服に小柄な身体。男からする甘い匂い。

「私、一人じゃ死ねなかった」

「そうか」

「だから、だからお願い」

――その手で、私を殺してください。

 男は女を球避けネットの上に引き倒した。

 頸動脈に手を当てる。カサカサとする、大きな男の手。

 ゆっくりと閉じられた女の目からひとしずくこぼれ落ちる。

 男は手に力を込める。

 ふっと、男は笑う。

「俺がナイを殺すのはもっと先だ」

「イク? なんで?」

 イクはナイを抱きしめた。

「ナイ、俺はお前のこと、愛してる」

「私は、私はイクのこと愛してる?」

 なんで疑問系なんだよ、とイクは笑った。

「ちょっとモナと仲良くしたからって拗ねやがって。可愛すぎんだろ」

 俺のこと信じろよ、とイクはナイのことを抱きしめた。

「ねえイク、私、たぶんイクのこと愛しているよ」

――その手で、生かされたいくらいに。