その手で　３１．ナイと水嶋家

　公衆電話でイクに電話をかけようとして、でも私は覚えきったダイアルを回せなかった。

　秋の夜は、一人の夜はこんなにも寒い。人のぬくもりを知ったばかりの私には寒すぎる夜だった。

　帰るところはナイ。消えてしまいたい。けど、イクのために生きていたい。どうしたらよいのだろう。

　薄っぺらい学校の指定カバンを漁っていると、一枚の紙切れが出てきた。喫茶店のロゴの上にボールペンで書かれた電話番号。夏休みに水嶋先生に貰ったものだ。いつでも頼りなさいと言われたけれど、本当にいいのだろうか。与えられた家族と、与えられた担任の先生。どちらも私が選び取った人ではない。イクは、イクだけは出会いは偶然にせよ私が選び取った人だ。

　今日どこで眠ろう。イクの腕の中がいい。でも、イクにはイクの世界があって、それは私が干渉していいところじゃない。

　私は諦めて水嶋先生に電話をかけた。三コール目で出て、五分後に水嶋先生が車で迎えに来てくれた。

「座って、松岡さん」

　水嶋先生の家は比較的新しいタワーマンションの一室だった。高いところに昇ると世界はこんなにも小さくて、私の生まれ故郷はきっとこんな小ささですべて瓦礫の山になったのだと思った。

　小さなダイニングテーブルにアイアンの枠組みの椅子が二つ。二つのマグカップに、二つのお茶碗。二つのお皿の上のビーフシチュー。

「冷えたでしょ。残り物で悪いんだけど、良かったら食べて」

　原形をかろうじてとどめている肉塊をスプーンでほぐしていると、私も最期はきっとこうやってどろどろになるのかと思い薄笑いが漏れた。味なんて分からない。空腹すら感じない。低血糖からくる気持ち悪さを解消するためだけの食事だった。

　目の前のものが消えて欲しくて私は黙々と食べた。水嶋先生が「美味しい？」と尋ねたので、考えることはやめて小さく頷いた。

「松岡さんはどうして家から出てきたのかな？」

　食べ終わった頃に水嶋先生が尋ねた。

「叔母さんにどこかに行ってしまえと言われたから」

　マグカップのホットミルクに張った膜をスプーンで引き裂きながら答えた。水嶋先生が怒っているのが肌で分かった。

「叔母さんに私から話をしようか。きっとカッとなって言ってしまっただけだよ」

　努めて明るい声で水嶋先生が言う。

　私は小さく「帰れない」と呟いた。心の底から絞り出したような声だった。

　水嶋先生の眼鏡の上に乗っている細い眉が困っている。また私は人を困らせている。叔父さんも困っていた。生きていたら皆、私のことで困るのだろうか。

　水嶋先生がこっちにおいで、と呼ぶ。膝の上に座ると、ペパーミントのような男性の匂いが私を包んだ。イクとは違う、洗い流されたような匂い。怖くなって、生きることが怖くなって私の瞳から滴がぽたり、ぽたりと落ち始めた。イクが取り払ってくれた瞳の膜はもうない。私は変わってしまった。イヤではないけれど、それだけ私は弱くなった。

「よしよし、大丈夫。大丈夫だから。そんな酷いことを言われたら悲しいね。松岡さんのことは私が守るから」

　イクに迷惑をかけることが怖かったのだと、このとき初めて自覚した。