2022.01.31 09:00その手で 11.ナイと花火大会 夏祭りの踊りをテレビ中継で見ていた。叔父さんと素麺を食べて、意味の分からないことしか書いてない夏休みの宿題とにらめっこして、何度か電話ボックスまで行こうかと悩んでやめた。 イクは夏祭りに行くのだろうか。と気付いたときには今年の踊りの優勝チームが発表されていて、眠気と暑さが混ざった思考が止まろうとしていた。 叔母さんとおにいさんが一緒に帰...
2022.01.30 09:00その手で 10.イクと夏祭り ナイは夏祭りに行ったことがあるのだろうか。 岩崎屋で皿洗いをしていると夏祭りのポスターと目が合った。丁度来週末、土曜が踊りで日曜が花火大会だった。 夏休みに入ってからナイと会ったのは補習日のゲーセンだけで、あとはたまに電話がかかってきてなんでもない話をするだけだった。この前は美術館に行って子供を食べる人の絵を見てきたらしい。ナイの趣味は...
2022.01.29 09:00その手で 9.ナイと美術館 どこへも行きたくないし、ここにも居たくない。しかし夏休みの課題というものもあって、それをやる気も特にない。やっぱり私には何もないんだな、と私は怠惰に蝉の鳴き声の中でうたた寝していた。 それでも喉の渇きという生理的な欲望にはあらがえなくて、私は人の気配がないことを確認してから台所に降りる。コップにぬるい水道水を注いでひと思いに飲んだ。冷た...
2022.01.28 09:00その手で 8.ナイと中村家 試験時間は私が思考するよりも速く、あっという間に過ぎた。水嶋先生が言うには世界史だけが赤点で、あとはどれもぎりぎりだが合格点に達していたらしい。イクと勉強した化学はクラスで真ん中くらいの成績で少しばかり誇らしかった。「まったく、こんな成績で恥ずかしくないの?」 赤点補習に出ようと玄関で靴を履いていると、叔母さんに呼び止められる。恥ずかし...
2022.01.27 09:00その手で 7.ナイと岩崎屋 私はイクと忘れ去られた場所を出ると、体育館裏の駐輪場に向かった。すでに帰ってしまった人が多いようで駐輪場は閑散としていた。もっとも、私はバス通学なので駐輪場に来るのは初めてだった。いつもはどれほどの自転車が置いてあるのだろう。「ナイ、こっちだ」 イクに呼ばれる。イクの自転車はメタリックブルーのフレームのシンプルなものだった。イクは青色が...
2022.01.26 09:00その手で 6.イクと体育館 期末テストが迫った七月。テストなんて赤点さえ取らなきゃなんでもいい、と今日も俺たちは「忘れ去られた場所」で怠惰な日々を送っていた。「イク、元素記号分かる?」 ナイが熱せられた床に足を投げ出して問う。手には化学1のテキストが握られていた。ナイの眉間には深い皺が刻まれ、うーん、うーん、と唸ってる。厨房の大型冷蔵庫みたいな音だ。「覚え方知らな...
2022.01.25 09:00その手で 5.ナイと渡り廊下 一年生の教室と三年生の教室は棟が違う。一年生は体育館に近い南校舎の二階と三階で、三年生は体育館から南校舎を挟んだ北側にある本校舎の三階だ。私の教室は南校舎の三階で、イクの教室は本校舎の三階のどこかである。本校舎の教室の並びを知らなければ、イクが何組なのかも私は知らなかった。私たちをつなぐのは体育館二階の「忘れ去られた場所」だけだ。 私は...
2022.01.24 09:00その手で 4.イクと体育館 午後、濡れた子猫みたいな顔をしたナイが「忘れ去られた場所」にやって来た。いつものおさげはほどかれて、少し濡れて軋んでいた。白いセーラー服の上に赤いジャージを羽織っていて暑くないのか気になった。 ナイが俺の隣に腰掛ける。緑のネットがやわらかく軋むのを背中で感じた。微かに、塩素の臭いがする。「プール、入ったのか?」 ナイは返事をせずにやたら...
2022.01.23 09:00その手で 3.ナイとプール そろそろ授業に出ないと出席日数が足りない、と担任の水嶋先生に諭されたのは一週間前のこと。私は忘れ去られた場所に行く時間を減らしてたまには授業に出るようになった。イクに会えないのは私の日常ではなくて、物足りなさを感じる。たぶんこれは寂しいという感情だ。誰かに会えなくて寂しいなんて感情を私が持っていたことに私は驚いた。 六月末。体育では水泳...
2022.01.22 09:00その手で 2.イクと体育館 変な女が体育館の二階にやって来た。ちびっこくて、黒い髪を二つの長いおさげにしていて、一重の鋭い瞳が写すものはいつも暗いもので。 友達も、家族も、居場所も、才能もない。そう語る彼女のことを俺は「ナイ」と心の中で呼んでいた。ナイがこの部屋を出入りするようになっても名乗らないのでそう勝手に呼ぶ。気づいたら口から出ていて、結局彼女の名前を知らず...
2022.01.22 03:37その手で 1.ナイと体育館 始業のチャイムが鳴った。私は教室には行かないで、人の気配がない体育館の重い鉄扉を押す。二階の窓から射す春の午後の日差しに細かな埃がチラチラ光っていた。しんとして、静かで、誰もいない。私の心のように、何もない。 私には何もない。家族も、友達も、居場所も、取り柄も、全部ない。 天井を見上げると大きな照明と鉄組の天井からバレーボールが首を吊っ...